鉢の魚

透きとおった大鉢に魚を泳がせて飼ったことがある。十日もたたないうちに、一匹がもろもろと砕けた腹を上にふわふわ浮いていた。
他の魚が死ぬのを待ち、すべて川に捨てた。鉢を洗い、鉢も捨てた。魚を鉢で飼うことはそれきりしなくなった。
死んでいる生き物を上から横から下からじっと見ることのできる容れ物に入れて、死ぬまで生き物を飼うのか。
死んでうろうろと漂っている魚は気味が悪い。生き物を死ぬまで容れてじっと見るための鉢は気味が悪い。

蟲打つ者

せむしは己のなかに蟲を見ては責めようとする女の手を一度手荒く掃い退けた。一度掃うと、次からは声を荒げて掃わずにはいられなくなった。
掃い、掃い、掃っても掃ってもどこまでも女が諦めないことを、見るも厭わしい怖ろしいものがごく身近に居るとき、背け続けていたはずのその眼は瞬いて反転し怖ろしいものを凝り視て憎むことを、憎んだものに取り付いて離れないことを、知ったとき、せむしは女の背を、殺す意をもって一打した。

背に蟲

二十にもならぬうちに、背は弓の引き成りのように曲がっていった。伸ばせぬわけではなく病でもないが、胡坐をかき膝に肘立てじっと考えるか寝るか馴染んだ書き物を飽かず読むことを繰り返すうちに、そのようになった。背がよいあんばいに丸まると、そのまま十日でも二十日でも座り続けられそうにほっと居心地がよかった。いずれ、座れば顎が膝に付くほどに丸まるかもしれない。
農村でそのような腰をした年寄りは珍しくはない。悪いことではなかろう。年寄りと早く同じ姿になることが見苦しいものだろうか。
古木の枝の成りが真っ直ぐでないことがあたりまえであるように、それはあたりまえのことだったが、女はその成りを嫌った。ああまたそんな背をして、と必ず言い、息の吸い方が悪いのではないかと大真面目に言って、まるい背を上から下へ激しく擦った。背の山の頂を平手でドンと打つこともたびたびあった。終には、ああ見るのもいやだ、わたしはこれを見るのもいやなのだよ、背に蟲がいるとはよく言ったもの、と叫ぶように言った。

不具

夫に尽くし子を愛しみ親戚とも縁戚とも近隣とも誠実に付き合う女がいた。
市の通りを女と供に歩いていたあるとき、女が道の片側からぐっと顔を背けた。何かを見るために顔を向けるしぐさと何かを見ないために顔を背けるしぐさとを人はいつからか見分ける。背けられた眼の元のまとには、こちらへいざり手首から先のない腕を延ばしきた乞食が居た。
多からぬ金を別けることならば惜しむ女ではなかった。女は後日、わたしはどうにも不具の身体を見たくないのだ、どうしても怖ろしい、と言った。

鍋に札

子猿が帰った数日の後、陽明るいうちから寝ていると、堂の扉がまたこつこつと鳴り、身を起こしたせむしの足元へ白くもなく子でもないふつうの茶毛の猿が頭を何度も下げながら歩み入ってきた。
黙っていると、茶毛の猿は人にたがわぬ流暢な言葉で、眷属が世話になったと言い、礼を言いに来たと言い、せんだっての雨風のひどさを言い、猿の群れが散り散りになった惨めさを言い、ぼつぼつ戻ってきた者もいると言い、それでもあれこれと憂いがあることを言った。その後、尾を手のなかでしばらく揉むようにしてから、思いきったように、あなたは施しを知る者だといい、それをみこんでいますこしわたくしどもにせんだってとおなじねどこのなにがしをおわけいただくことができればうんぬんと、馬鹿馬鹿しく丁寧な言い回しを何重にも言い回して言い終わった。
せむしは、この猿を言葉ごと拳で叩き潰してやりたいという欲が腹の底から頭をもたげはじめたのを自ずから見て、無惨の前に相手を追い出そうと腰を上げた。だがふと思いつき、あの子猿がここに来ればよいと言うたのか、と尋ねた。茶毛の猿は、そうではない、他の猿と掴み合い引っ張り合いになっていたあの布をわたくしが見咎めて訊き出したのです、と答えた。その答えで、せむしの欲は白毛の子猿と茶毛の猿のどちらにも向かずにすっと頭を垂れた。
俺の布団はそこだ、と言い、せむしは堂のすみに腰を移した。茶毛の猿は頭を何度も何度も下げ、猿の声でなにか呼ばわった。それを合図に大小の茶毛の猿がぞろぞろと堂の内に入ってき、せむしの布団をぐるりと取り囲んだ。はじめの猿は勝手知ったるふうで机から鋏を持ちだし、せむしの布団をざくざく切って周囲の猿に一片づつ手渡した。手渡された猿ははじめの猿に頭を下げ、部屋のすみのせむしに向き直って頭を下げ、一匹づつ堂から外へ出て行った。
せむしはその様子を見ながら、頭を垂れていたあの欲が蛇が鎌首をすいともたげるようにすいともたがりゆらゆら揺れている自分の様子をも見た。鎌首の高さが腹から胸へ、胸から喉元へときたところで、猿の仕事が終いになった。堂に一匹残った、はじめの茶毛の猿が、最後の一片を手にせむしに深く頭を下げようとしたとき、欲はついにせむしの拳を握らせた。
せむしが腰を浮かしたそのとき、堂の入口から一匹の猿が頭をさし入れ、まだ終わっていませんか、遅かったでしょうかと言っておどおどと堂を見渡した。はじめの猿は、いいや間に合ったと言い、遅れてきた猿に走り寄って手の中の一片を渡した。そうして扉のきわでせむしに振り返り、頭を下げようとしたところで、せむしは拳を握ったまま扉に向かい怒鳴りつけた。お前らいつまで居る気だ、俺が喰ってもいいのか。二匹の猿はひと飛びに外へ飛び出した。
せむしは立ちあがり、堂の扉を閉めに行った。
翌日、「猿鍋」と書いた札を鍋の裏底に貼り、扉の表に立て懸けた。

子猿

ある夕、夜中のような暗さの、ひどい雨風となった。
堂の扉をぴたりと閉め灯りも付けず寝ていたが、扉の向こうに、こつこつこつこつと小石のぶつかるような音を察し、起きあがって扉を細く開けてみた。すきまから毛毬のようなものが転がり入ってきた。濡れすぼんだ毛を上着の裾で拭き拭ってみると、ここらで見かける小猿の子で、変わり種なのかやたらに毛色が白い。一握りで潰されそうなせむしの厚い掌でぶるぶる震えている。
小猿は、なにか掛けるものをくださいと自ら口をきいた。なにかくださらなきゃ風邪をひいちまう、と続けて言い、どんぐりのような小さい足をタンタンと踏み鳴らした。次に、じゃあね、自分で取ってきますからどこにあるか教えてくださいな、と言い、寝床と机しかないせむしのがらん堂をきょときょと見回し、それでも相手が黙っているので、取ってきますから教えてくださいよう、教えるのが面倒なら自分で探して来いと言ってくださいよう、と、さらにタンタン足を踏み鳴らす。
ここには俺の服と布団のほかに布はないとせむしが答えると、小猿は首をひねっている。ぼくに掛ける布は無いということですか、と聞いてくるので、そうは言っていないと答えると、小猿は泣きそうな声で、だってあなたの服か布団をぼくが取るわけにはいかないもの、ぼくには大きすぎるし、あなたには悪いし、それくらいわかってくださいよう、と言い、ますます足をタンタン踏み鳴らす。せむしは、小猿が濡れてぶるぶる震えていることより泣きそうなことより、はやくその小さな足のタンタンを止めてやらんといかんという気がどうにもして、ではな、あの机から鋏を取ってきて、お前の要るだけ俺の布団を切って持って行っていいと答えた。
小猿はひとつ頭を下げ、部屋のすみの机へ走って行き、裁縫鋏をよいせとかつぎ、よろよろとせむしの布団に向かい、足元のほうを切り始めた。身に余る鋏を持ち上げて、ふうふう息をつきながら、身の丈きっちりの方形にまっすぐにちょびりちょびりと切るものだから、終わるころにはその白い毛は、雨に濡れたのだか汗で濡れたのだかわからなくなった。
雨風が止まぬので、せむしが今晩は泊れと言うと、小猿は、いましがた自分であつらえた布団にくるまり、せむしの布団の枕元にころりと伏して、ああこれはいい、あたたかいと言い、すぐに寝てしまった。