鍋に札

子猿が帰った数日の後、陽明るいうちから寝ていると、堂の扉がまたこつこつと鳴り、身を起こしたせむしの足元へ白くもなく子でもないふつうの茶毛の猿が頭を何度も下げながら歩み入ってきた。
黙っていると、茶毛の猿は人にたがわぬ流暢な言葉で、眷属が世話になったと言い、礼を言いに来たと言い、せんだっての雨風のひどさを言い、猿の群れが散り散りになった惨めさを言い、ぼつぼつ戻ってきた者もいると言い、それでもあれこれと憂いがあることを言った。その後、尾を手のなかでしばらく揉むようにしてから、思いきったように、あなたは施しを知る者だといい、それをみこんでいますこしわたくしどもにせんだってとおなじねどこのなにがしをおわけいただくことができればうんぬんと、馬鹿馬鹿しく丁寧な言い回しを何重にも言い回して言い終わった。
せむしは、この猿を言葉ごと拳で叩き潰してやりたいという欲が腹の底から頭をもたげはじめたのを自ずから見て、無惨の前に相手を追い出そうと腰を上げた。だがふと思いつき、あの子猿がここに来ればよいと言うたのか、と尋ねた。茶毛の猿は、そうではない、他の猿と掴み合い引っ張り合いになっていたあの布をわたくしが見咎めて訊き出したのです、と答えた。その答えで、せむしの欲は白毛の子猿と茶毛の猿のどちらにも向かずにすっと頭を垂れた。
俺の布団はそこだ、と言い、せむしは堂のすみに腰を移した。茶毛の猿は頭を何度も何度も下げ、猿の声でなにか呼ばわった。それを合図に大小の茶毛の猿がぞろぞろと堂の内に入ってき、せむしの布団をぐるりと取り囲んだ。はじめの猿は勝手知ったるふうで机から鋏を持ちだし、せむしの布団をざくざく切って周囲の猿に一片づつ手渡した。手渡された猿ははじめの猿に頭を下げ、部屋のすみのせむしに向き直って頭を下げ、一匹づつ堂から外へ出て行った。
せむしはその様子を見ながら、頭を垂れていたあの欲が蛇が鎌首をすいともたげるようにすいともたがりゆらゆら揺れている自分の様子をも見た。鎌首の高さが腹から胸へ、胸から喉元へときたところで、猿の仕事が終いになった。堂に一匹残った、はじめの茶毛の猿が、最後の一片を手にせむしに深く頭を下げようとしたとき、欲はついにせむしの拳を握らせた。
せむしが腰を浮かしたそのとき、堂の入口から一匹の猿が頭をさし入れ、まだ終わっていませんか、遅かったでしょうかと言っておどおどと堂を見渡した。はじめの猿は、いいや間に合ったと言い、遅れてきた猿に走り寄って手の中の一片を渡した。そうして扉のきわでせむしに振り返り、頭を下げようとしたところで、せむしは拳を握ったまま扉に向かい怒鳴りつけた。お前らいつまで居る気だ、俺が喰ってもいいのか。二匹の猿はひと飛びに外へ飛び出した。
せむしは立ちあがり、堂の扉を閉めに行った。
翌日、「猿鍋」と書いた札を鍋の裏底に貼り、扉の表に立て懸けた。